茶色の髪と瞳で生まれる子供が多いラングヒル伯爵家では、たまに黒髪黒目の娘が生まれる。
そしてラングヒル伯爵家の黒髪黒目の娘は、王家に嫁ぐのが習わしだ。 だがなぜかその理由について、ラングヒル伯爵家の者が知ることはない。 さらに言えば、まるで生贄のように差し出された娘がどうなったのかについても興味を持つことはない。 まるで家系図から切り離されたかのように忘れ去られるのだ。黒髪黒目で生まれたミカエラ・ラングヒル伯爵令嬢の未来は、生まれ落ちたその日から決められていた。
ラングヒル伯爵家の黒髪黒目の令嬢は『愛する人を癒す異能』を持っている。 しかし愛する人を守ることのできるその特殊な異能が、令嬢を幸せにするとは限らない。今から10年前。
王太子アイゼルが12歳の時に、高位貴族の令嬢たちが集められた。 そこには何故か、伯爵家のミカエラも呼ばれたのだ。 大人たちは知っていた。 そのお茶会が、王太子の婚約者を探すためのものであることを。だがミカエラは全く気付いてはいなかった。
その時、彼女は8歳。 まだ世の中に憂いというものがあるという事すら、知らない年頃のことである。 2人の姉と共に可愛らしいドレスを着せられて、華やかな場所に連れて来られた彼女は無邪気に楽しんでいた。「きれいっ。とってもきれいっ!」
よく晴れたうららかな日。
花は咲き乱れ、日差しはたっぷりと降り注ぎ、ミカエラの心に憂いはなかった。 花咲き乱れる庭園に、華やかなテーブルセッティング、そこに並べられた彩りも鮮やかな可愛らしいお菓子たち。「うふ。かわいい。絵本みたい」
お伽噺のような空間に、ミカエラの心は踊った。
春から夏に向かっていく季節は、いつも希望に満ちている。
初めて見る高位貴族のご令嬢たちは、美しく可愛らしい。 お人形のように完璧に着飾り、淑女のような所作をとる。 現実とは思えないほど素晴らしく、そこに混ざっている自分に違和感を感じるほどだった。 しかし、ミカエラは、わずか8歳。 深く考えることはなかった。見ているだけでも楽しいお茶会に浮かれて、踊りだしそうな気分でいたのだ。
周りの大人たちは伯爵令嬢ではあるものの、力があるわけでも、お金があるわけでもない家柄の娘が混ざっていることを不思議に思って、あるいは不快に思って眺めていたようだった。
不躾な視線を浴びながらも、美味しくて可愛いお菓子とお茶を楽しむミカエラは、ただの子供だった。あの時までは。
「今日は私が12歳になる誕生日。この記念すべき日のお茶会に出席して頂き、ありがとうございます」
(王子さまだぁ……。きれい)
金髪を太陽の光に煌かせるアイゼルは、いかにも王子さまという雰囲気をまとっていた。
(キラキラしていて、絵本の中から抜け出てきたみたい。素敵ね。でも……わたしとは、関係のない人。遠くからでも見られてラッキーだわ)
王子も、王族も、王宮も。
素敵だけど、自分とは関係のない人たちで遠い存在、縁のない場所。 (生きてる世界が違うのよね)ミカエラは周りの雰囲気など気にせず、お茶とお菓子を楽しんでいた。
しかしそれが気に食わないご令嬢たちがいた。「生意気なのよ」
「ええ、生意気だわ。大した家でもない伯爵家の娘が」 「場の空気を読まないにもほどがあるわ」「?」
何が生意気なのか分からないまま、高位貴族の令嬢たちに囲まれたミカエラは足を引っ掛けられて転ばされ。
ついでとばかりに、お茶もかけられた。 集められた令嬢のなかで一番年齢が若く、爵位も低い家のミカエラを邪険に扱うことなど簡単だ。「ふふ。あなたなんて濡れネズミがお似合いだわ」
「ふん。いい気味だわ」 「これからは気を付けることね」唖然とするミカエラに満足したご令嬢たちは、ツンと澄ました顔で何処かへ行ってしまった。
(なぜイジワルされなきゃいけないの?)
庭園に転んだまま残されたミカエラは、泥だらけのまま泣き出してしまった。
「キミ、大丈夫?」
優しく声をかけられて見上げれば、日差しを浴びて光り輝く金の髪。
「転んで泣いちゃったのかな? 大丈夫だよ。さぁ、手を出して」
優しい笑みを浮かべるその人は、ミカエラに向かって手を差し出した。
ミカエラは、その手に向かって自分の手を伸ばす。 温かで、自分よりも大きな力強い手。 その手に自分の手をしっかりと掴まれて、ミカエラは引っ張り起こされた。「汚れちゃったね。ケガはしてない?」
澄んだ青い瞳が、ミカエラを覗き込む。
(王子さまだ!)
ポンッと音がするくらい勢いよく耳が熱くなる。
顔はもちろん、首まで真っ赤だろう。 ミカエラは王子さまの手を振り払う勢いで引き寄せた自分の手を、両方の頬へとあてた。熱い。
不躾な態度を後悔しつつ、何か言わなければとミカエラは焦った。
「あの……大丈夫……です」
「せっかく可愛くして貰ったのに、かわいそうに。転んじゃったのかな。痛くなかった?」 「……っ」ミカエラは両手で顔を覆いたくなった。
そんな見苦しい所作をとるのは恥ずかしいことだけれど。 恥ずかしくて、恥ずかしくて。 自分の手の陰でもいいから隠れたい。 そんな気分だった。「すぐに直して貰おうね。キミの侍女はどこかな?」
優しい口調。
優しい気遣い。 優しい笑顔。ミカエラが恋へ落ちるのに時間は必要なかった。
「侍女……」
呟きながらミカエラは突然、激しい痛みを覚えた。
全身にトゲが突き刺さり、筋肉がねじり上げられるような痛み。「うっ……」
うめいた後の記憶は無い。
初めて『被害の肩代わり』が起きた日だ。 アイゼルのお茶には毒が盛られており、ミカエラが身代わりとなって苦しむことになった。ミカエラは初恋を知ったその日に、初めて服毒による苦しみを知った。
そこからの動きは早かった。
瞬く間に婚約が結ばれて。 毒による苦しみから目覚めたミカエラは、自分が王太子の婚約者になったことを知ったのだった。 あれよあれよという間に、ミカエラはラングヒル伯爵家から王宮へと居を移し、そして10年の時が過ぎた――――苦しい! 苦しい! 苦しい! ミカエラは、赤いネグリジェに包まれた細い体を絞り上げるようにしてベッドの上で身悶えていた。 動きに合わせて引き攣れる深紅のシーツの上を光沢がうねうねと這っていく。 白過ぎる肌は血の気を無くし蝋のようだ。 彼女がのたうつたびに真っ黒な長い髪が深紅のシーツに散らばる。 いくつかの束に分かれて動く黒髪は、蝋燭の灯りに照らされて何匹ものヘビが絡み合っているようにも見えた。 骨と皮のような指が、喉を掻きむしる。 細すぎる首に爪の先が食い込んでいくのを、ベッドの脇に立つ侍女は冷たい瞳で見下ろしていた。「グッ……ゲホゲホ……ゲボッ」 「もう、汚いっ! いい加減、吐くかどうかくらい自分で分かるでしょ⁉ ちゃんとしてよねっ!」 いかにも汚いモノを見るような表情を浮かべた侍女ルディアは、おう吐物にまみれたミカエラを憎々しげに睨む。 ルディアにしてみれば、侍女として仕える身であるとはいえ伯爵家の令嬢たる自分が汚物処理をしなければならないことに納得できていないのだ。 相手が王太子の婚約者であり、未来の王妃、国母になる女性であったとしても、それは変わらない。「ごっ……ごめんなさ……ゲボッ」 「あぁっ! またっ⁉」 ミカエラがおう吐し、深紅のシーツが汚物にまみれ汚れる。 血と消化途中の食べ物、胃の分泌液にまみれたおう吐物は、とんでもなく臭った。 豪奢な部屋の中に、おう吐物の臭いが充満していく。 侍女の顔は更に醜く歪み、眉間のシワは深くなった。「グッ……ぁあ……ゲホゲホ……」 細い体をのたうち回らせて苦しむミカエラに寄り添う者は、そこに居ない。 王宮内に用意された未来の王妃の部屋だというのに、華やかさはトゲトゲしさに化けるばかりで安寧を感じるには程遠い場所となっていた。「苦しそうにしてたって、朝にはケロッと治っちゃうんだから。ホント便利な体よね」 「ゲボッ」 「だからっ。汚さないでって!」 イライラとした声を出す侍女の隣で、白衣を着た老人は溜息を吐く。「いつもの事だ。ルディア。キミも少しは慣れておきなさい」 「嫌なことを言わないで下さいよ、先生」 ルディアは眉根を寄せて顔をしかめた。「王太子は狙われるものだ。王になればなおのこと。減ることはない。その被害を身代わりに引き受けるミカエラ
茶色の髪と瞳で生まれる子供が多いラングヒル伯爵家では、たまに黒髪黒目の娘が生まれる。 そしてラングヒル伯爵家の黒髪黒目の娘は、王家に嫁ぐのが習わしだ。 だがなぜかその理由について、ラングヒル伯爵家の者が知ることはない。 さらに言えば、まるで生贄のように差し出された娘がどうなったのかについても興味を持つことはない。 まるで家系図から切り離されたかのように忘れ去られるのだ。 黒髪黒目で生まれたミカエラ・ラングヒル伯爵令嬢の未来は、生まれ落ちたその日から決められていた。 ラングヒル伯爵家の黒髪黒目の令嬢は『愛する人を癒す異能』を持っている。 しかし愛する人を守ることのできるその特殊な異能が、令嬢を幸せにするとは限らない。 今から10年前。 王太子アイゼルが12歳の時に、高位貴族の令嬢たちが集められた。 そこには何故か、伯爵家のミカエラも呼ばれたのだ。 大人たちは知っていた。 そのお茶会が、王太子の婚約者を探すためのものであることを。 だがミカエラは全く気付いてはいなかった。 その時、彼女は8歳。 まだ世の中に憂いというものがあるという事すら、知らない年頃のことである。 2人の姉と共に可愛らしいドレスを着せられて、華やかな場所に連れて来られた彼女は無邪気に楽しんでいた。「きれいっ。とってもきれいっ!」 よく晴れたうららかな日。 花は咲き乱れ、日差しはたっぷりと降り注ぎ、ミカエラの心に憂いはなかった。 花咲き乱れる庭園に、華やかなテーブルセッティング、そこに並べられた彩りも鮮やかな可愛らしいお菓子たち。「うふ。かわいい。絵本みたい」 お伽噺のような空間に、ミカエラの心は踊った。 春から夏に向かっていく季節は、いつも希望に満ちている。 初めて見る高位貴族のご令嬢たちは、美しく可愛らしい。 お人形のように完璧に着飾り、淑女のような所作をとる。 現実とは思えないほど素晴らしく、そこに混ざっている自分に違和感を感じるほどだった。 しかし、ミカエラは、わずか8歳。 深く考えることはなかった。 見ているだけでも楽しいお茶会に浮かれて、踊りだしそうな気分でいたのだ。 周りの大人たちは伯爵令嬢ではあるものの、力があるわけでも、お金があるわけでもない家柄の娘が混ざっていることを不思議に思って
(助けてっ! 誰か助けて!) 猿ぐつわを嵌められて暗い部屋の床に転がされているミカエラは、声を出せないまま心の底から願った。 此処が何処なのかも分からない。 夜会会場から誘拐されたミカエラは、長い黒髪をハーフアップに整えて華やかな金色のドレスを着ている。 ドレスが華やかな分、床に転がされている現状が余計に惨めで残酷だとミカエラは感じた。(あぁ、わたくしは王太子の婚約者だというのに誰も助けにきてくれないの? わたくしが悪役令嬢だから? でもわたくしが殺されれば困るのは、婚約者であるアイゼルさまなのに……護衛は何をしているのかしら?) その時だ。 心細さに震えるミカエラの耳に、ガシャンという派手な音が響いた。 ミカエラを閉じ込めていた部屋の扉が粉々に砕け飛び散る。 (眩しい!) いきなりまばゆい光が室内へ押し寄せるように差し込む。 目もくらむような眩しい光の中には、金色の髪をなびかせるアイゼルの姿があった。 (なぜアイゼルさまが⁉) 混乱するミカエラを、青い目がとらえる。 彼女を見たアイゼルは一瞬だけ痛ましげに表情を歪めると、キュッと口元を引き締めた。「もう大丈夫だ。安心して」 アイゼルは彼女の傍らに跪くと、ミカエラの口元から猿ぐつわを外した。 自由になった口で、ミカエラは疑問を言葉にする。「アイゼルさま……なぜ、此処へ?」 アイゼルはミカエラの拘束を解いて助け起こしながら、どうということはないといった調子で平然と言う。「愛する君が消えたんだ。必死になって探すに決まっているだろ?」 「……え?」 ミカエラは呆然と、少し怒っているような、拗ねているような様子のアイゼルを見つめた。 (愛する君⁉ アイゼルさまが、愛する君? え?……それは本当に、わたくしのことですか?) 助け起こされながらも、ミカエラがそう思うのも無理はない。 可愛げが無い、不気味、無能。 そして悪役令嬢。 それがミカエラの評判だ。 婚約者であるアイゼルも、その評判を肯定するかのように、ミカエラへ冷たく当たった。(アイゼルさまは、変な呪いにでもかかっているのでは?) ミカエラがそう思ってしまうほど、アイゼルの彼女に対する態度は酷かった。 だがアイゼルにも事情がある。「そこまでポカンとした表情をされると